Masuk1-1 息が詰まる日常
月曜日の朝は、いつも憂鬱だった。
黒川涼介は、混雑する通勤電車の中で吊り革につかまりながら、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。郊外のマンションから都心のオフィスまでは片道四十分で、その通勤時間だけが、涼介にとって唯一の「無」になれる時間だった。
車窓の向こうでは、住宅街が途切れ、高層ビルが増え始めている。灰色のコンクリートと、朝日を反射するガラスの壁。東京という街は、どこまでも無機質で、どこまでも他人に無関心だ。それが涼介には心地よかった。誰も涼介のことを見ていない。誰も涼介のことを気にしていない。大勢の中に紛れて、透明人間のように生きていられる。
イヤホンからは、ジャズのボーカル曲が流れている。低く、甘い女性の声。ビリー・ホリデイの古いレコードをデジタル化したものだ。涼介はこの曲を、もう何百回聴いたか分からないほどだ。歌詞の意味など、とうに忘れてしまった。ただ、この声の響きだけが、涼介の心を静めてくれる。
音楽を聴いている時だけ、涼介は「自分」でいられた。
声というものには、不思議な力がある。言葉の意味を超えて、直接心に染み込んでくる何か。涼介はその「何か」に、物心ついた頃から惹かれ続けてきた。母親の子守唄、ラジオから流れるDJの声、映画の中の俳優の台詞。涼介の記憶は、いつも「声」と結びついている。
電車が駅に着くたびに、人が乗り降りする。スーツ姿のサラリーマン、制服を着た学生、買い物袋を持った主婦。誰もが自分の世界に閉じこもり、他人に関心を持たない。スマートフォンの画面を見つめる人、目を閉じて眠る人、ぼんやりと宙を見つめる人。
それでいい、と涼介は思う。
誰にも注目されず、誰にも干渉されない。それが、涼介にとって最も心地よい状態だった。
都心のターミナル駅で電車を降り、オフィスビルに向かう。涼介が勤める総合商社は、駅から徒歩五分の高層ビルに入っている。朝の八時半、出勤ラッシュの人波に紛れながら、涼介は無表情で歩を進めた。
エントランスを抜け、エレベーターに乗り、十二階のフロアに降りる。自動ドアが開いた瞬間、オフィス特有の空気が涼介を包み込んだ。空調の音、コピー機の稼働音、そして無数の人の声。
「おはようございます」
受付の女性に軽く会釈をして、自分のデスクに向かう。
海外事業部のフロアは、すでに活気に満ちていた。電話をかける声、キーボードを叩く音、コーヒーメーカーが稼働する音。さまざまな音が混ざり合い、独特のざわめきを作り出している。
涼介は、その音の洪水の中から、特定の声だけを聞き分けることができた。
上司の声――今日は機嫌が悪い。声のトーンがいつもより低く、語尾が鋭い。昨日の会議で何かあったのかもしれない。同僚の声――昨日飲みすぎたらしい。声が掠れていて、喉の奥に疲労が滲んでいる。きっと二日酔いなのだろう。取引先からの電話――相手は焦っている。呼吸が浅く、言葉と言葉の間隔が詰まっている。納期に何か問題があるのかもしれない。
それぞれの声には、それぞれの感情が込められている。怒り、焦り、喜び、不安。涼介の耳は、声の裏に隠された感情を敏感に拾い上げてしまう。それは便利な能力であると同時に、時として重荷にもなる。知りたくないことまで、聞こえてしまうからだ。
それは、生まれ持った能力だった。
子供の頃から、涼介は音に敏感だった。他の人には聞こえない小さな音を拾ってしまう。隣の部屋で囁かれる会話、遠くで鳴る電話の着信音、誰かが息を呑むかすかな気配。雑踏の中でも特定の声だけを聞き分けられる。時には、それが気味悪がられることもあった。
「お前、なんで分かるんだ?」
子供の頃、そう聞かれるたびに、涼介は黙り込んだ。説明しても、理解されないことを知っていたからだ。
そして何より――美しい声を聴くと、全身が反応してしまう体質だった。
聴覚フェチ。
その言葉を知ったのは、大学生の時だった。ネットで偶然見つけた記事を読んで、涼介は自分の体質にようやく名前がついたことを知った。
声に性的興奮を覚える。特定の音に強い快感を覚える。
世の中には、同じような体質の人間がいるらしい。ASMRという言葉が流行り始めた頃、涼介はその意味を調べ、いくつかの動画を視聴した。囁き声、耳かきの音、紙がこすれる音。確かに心地よかったが、涼介が本当に求めているものとは、少し違っていた。
涼介が求めているのは、もっと――人間らしい声だった。機械的に作られた音ではなく、感情が込められた、生身の人間の声。
「黒川、おはよう」
思考を遮るように、声をかけてきたのは、同期の山下翔太だった。
涼介と同じ海外事業部に所属する山下は、入社以来の付き合いだ。百八十センチを超える長身に、整った顔立ち。短く刈り上げた髪と、人懐っこい笑顔。社内でも人気のある男だった。女性社員からの評判も良く、合コンに誘われることも多いと聞く。営業成績も優秀で、上司からの評価も高い。
そして何より、山下は「要領のいい」男だった。
仕事ができるだけでなく、自分の成果をアピールする術を心得ている。会議での発言、上司への報告、クライアントへのプレゼン。すべてにおいて、山下は自分を「見せる」ことに長けていた。
涼介とは、正反対の人間だ。
「おはよう、山下」
「今日の会議、準備できてる?」
「ああ、資料は昨日のうちに仕上げた」
「さすが黒川。頼りになるな」
山下が肩を叩いてくる。涼介は曖昧に笑って受け流した。その笑顔が、自分でも嘘くさいことは分かっている。でも、それ以外にどう反応すればいいのか分からなかった。
今日の会議は、海外のクライアントとのビデオ会議だった。シンガポールの企業との新規プロジェクトの提案を行う重要な会議で、涼介は一週間かけて資料を作成していた。
市場調査、競合分析、収益予測、リスク評価。膨大なデータを分析し、分かりやすい形にまとめ上げる。それが涼介の仕事だった。エクセルの数式、パワーポイントのグラフ、説得力のある文章。涼介はそれらを完璧に仕上げることができる。深夜まで残業し、何度も変更を重ねて、一つの隙もない資料に仕上げた。
ただし、それを「伝える」ことだけは、できなかった。
「黒川くん、資料の最終確認をお願いできるかな」
上司の声が聞こえる。五十代半ばの部長は、いつも穏やかな口調だが、その声の奥には常に計算が潜んでいる。涼介の耳には、その計算が透けて見えてしまう。「使える人材」と「使えない人材」を冷静に仕分けする、合理的な思考。涼介は今、どちらに分類されているのだろうか。
「はい、こちらです」
「うん、よくまとまってるね。さすがだ」
上司が資料をめくりながら頷く。涼介は小さく頭を下げた。
「では、プレゼンは山下くんに任せよう。黒川くんは補足説明の準備をしておいてくれ」
涼介の手が、わずかに強張った。
また、だ。
資料を作るのは涼介。プレゼンをして評価されるのは山下。このパターンが、入社以来六年間、ずっと続いている。最初の頃は、仕方がないと思っていた。新人だから、経験がないから、まだ信頼されていないから。そう自分に言い聞かせてきた。
だが、六年経っても、何も変わらない。
「はい、分かりました」
涼介は感情を押し殺して答えた。
本当は、自分でプレゼンしたい。自分の言葉で、自分の仕事を説明したい。この資料に込めた思いを、自分の声で伝えたい。
それでも、声が出ない。
人前で話すことが、涼介にはできなかった。正確には、できないのではなく、怖いのだ。注目されることが怖い。評価されることが怖い。そして何より、本当の自分を見透かされることが怖い。
大勢の前に立つと、喉が締め付けられる。心臓が早鐘を打ち、手のひらに汗が滲む。頭の中が真っ白になって、用意していた言葉がすべて消えてしまう。声が震え、言葉がつっかえ、みじめな思いをする。何度も、何度も、そんな経験を繰り返してきた。
だから涼介は、いつも「裏方」に徹してきた。
会議室に入ると、すでにビデオ会議のセッティングが終わっていた。大型モニターには、海外のクライアントの姿が映し出されている。シンガポールのオフィスにいる担当者たちだ。時差は一時間しかない。向こうはまだ朝の七時半だが、彼らの表情は真剣そのものだった。
「皆さん、おはようございます」
山下が流暢な英語で挨拶を始める。涼介は会議室の隅に座り、補足資料を手元に置いた。
山下のプレゼンは、いつも通り完璧だった。
涼介が作成した資料を、山下は自分の言葉で説明していく。データの解釈、戦略の提案、リスクへの対応策。すべてが涼介の分析に基づいているのに、山下の口から語られると、まるで山下自身のアイデアのように聞こえる。
山下の声は、自信に満ちていた。抑揚があり、間の取り方が絶妙で、聴く者を引き込む力がある。声のトーンを状況に応じて変え、重要なポイントでは力強く、細かい説明では穏やかに。涼介には絶対に真似できない、天性のプレゼン能力だった。
「素晴らしいプレゼンテーションでした、山下さん」
クライアントが賞賛の言葉を送る。山下は満足げに微笑んだ。
「ありがとうございます。この提案には力を入れました」
涼介は、その言葉を聞いて唇を噛んだ。
「俺が」力を入れた――。
俺が、だ。俺が一週間かけて作った資料だ。毎晩終電まで残って、データを分析して、グラフを作り直して、文章を何度も推敲して――。
でも、涼介は何も言わなかった。言えなかった。言ったところで、何も変わらないことを知っていたからだ。
会議が終わった後、上司が山下の肩を叩いた。
「山下くん、素晴らしいプレゼンだったね。クライアントも満足そうだった」
「ありがとうございます。黒川の資料が良かったので、助かりました」
山下が涼介の方を見て言う。上司も涼介に目を向けた。
「そうだね。黒川くんの資料はいつも完璧だ。裏方として、よく支えてくれている」
裏方。
その言葉が、涼介の胸に深く刺さった。六年間、ずっと言われ続けてきた言葉。「裏方向きの人材」「縁の下の力持ち」「サポート役として優秀」。すべて、褒め言葉の形をした評価の天井だ。
「ありがとうございます」
涼介は無表情で答えた。顔には何も出さない。感情を表に出すことは、涼介にとって最も苦手なことの一つだった。
日曜日の午後だった。 涼介は奏の部屋で、二人で映画を観ていた。奏が選んだのは、フランスの古い恋愛映画だった。字幕を追いながら、涼介は時折、隣の奏の横顔を盗み見ていた。画面の光に照らされたその横顔は、映画の登場人物よりも美しく見えた。 映画のクライマックスに差し掛かった時、奏のスマートフォンが鳴った。 奏は画面を見て、表情を曇らせた。一瞬、その目に暗い影がよぎった。小さくため息をついて、着信を無視した。「……ごめん、出たくない相手だから。しばらく鳴るかも」 奏はそう言って、スマートフォンを裏返しにしてテーブルの上に置いた。スマートフォンはしばらく振動し続けたが、やがて静かになった。しかし、奏の表情は、晴れないままだった。「大丈夫ですか?」 涼介は気になって尋ねた。奏の様子が、明らかにいつもと違ったからだ。「……うん、大丈夫。ちょっと面倒な人がいてね」 奏の答えは、曖昧だった。それ以上聞くなという空気が、奏の周りに漂っていた。涼介は「面倒な人」という言葉の意味を、考えずにはいられなかった。 涼介はそれ以上追及しなかった。けれど、胸の中にかすかな不安が芽生えた。 * 数日後、涼介は仕事帰りに駅前のカフェの前を通りかかった。 ガラス越しに店内が見える。その中に、見覚えのある後ろ姿があった。 焦げ茶のセミロング。奏だ。 涼介は足を止めた。奏の向かいに、男が座っている。三十代前半くらいだろうか。黒髪を短く刈り込んだ、精悍な顔立ちの男だ。眼鏡をかけていて、知的な印象を与える。 二人は親しげに話していた。男が何か言うと、奏が小さく笑う。その笑顔は、涼介に見せるものとは少し違う気がした。もっと気安くて親密な笑顔。昔からの知り合い同士が見せる、遠慮のない表情だった。 涼介の胸に、チクリと痛みが走った。 誰だ、あの男は。奏と、どういう関係なのだ。あの日、電話に出たくないと言っていた相手だろうか。 涼介は自分の感情に驚いた
雨の夜から、一週間が経った。 涼介と奏の距離は、更に近づいていた。 週末には一緒に買い物に出かけた。駅前のスーパーで食材を選び、そのあと奏の部屋で一緒に料理を作った。涼介は料理が得意ではなかったが、奏が横で丁寧に教えてくれた。「包丁はこうやって持つといいよ。指を切らないように」 奏が涼介の手を取り、包丁の握り方を直す。その手の温もりに、涼介の心臓が跳ねた。細い指が、涼介の指に重なる。その感触が、涼介の神経を刺激した。「力を入れすぎないで。野菜は押すんじゃなくて、引いて切るの」 奏の声が、耳元で響く。至近距離で聞く奏の声は、配信で聴くよりもずっと生々しかった。息遣いまで聞こえる。その声に導かれるまま、涼介は包丁を動かした。 平日の夜は、仕事終わりに一緒にコンビニに寄ることが増えた。たまたま会うこともあれば、涼介が帰宅する時間に奏がエレベーターホールで待っていることもあった。「お帰り、黒川さん」 その言葉を聞くたびに、涼介の胸が温かくなる。待っていてくれる人がいる。それだけで、深夜の残業も耐えられる気がした。疲れ切った体が、奏の声を聴いた瞬間に少しだけ軽くなる。 映画も一緒に観た。奏の部屋で、奏が好きだという古い恋愛映画を。「この映画、何度観ても泣いちゃうんだ」 奏が目を潤ませながら言った。涼介は隣で、その横顔を見つめていた。画面の光に照らされた奏の顔は、とても美しかった。涙で濡れた睫毛が、光を反射している。その姿に、涼介は息を呑んだ。 恋人のようで、まだ恋人じゃない。 その曖昧な関係が、涼介には心地よくもあり、もどかしくもあった。 * その日の夜、涼介は壁に耳を当てて奏の配信を聴いていた。 いつもと同じ、深夜の囁き声。しかしこの夜、奏の言葉は明らかに涼介を意識していた。「今日は、雨の話をしようかな」 奏の声が、壁を通して涼介の耳に届く。その声は、いつもよりゆっくりと、丁寧に紡がれていた。「雨の日って……誰かと一つ
梅雨入りが発表されてから、一週間が経った。 六月の東京は、どんよりとした雲に覆われる日が多くなった。朝起きた時は晴れていても、夕方には雨が降り出す。そんな不安定な天気が続いていた。 涼介と奏は、あれから何度か食事を共にしていた。奏の部屋で夕食を食べることもあれば、近くのファミレスで一緒にランチをすることもある。ごく自然に、二人の距離は縮まっていった。 しかし涼介は、それ以上踏み込めずにいた。 奏は優しい。いつも笑顔で、涼介の話に耳を傾けてくれる。一緒にいると心地よくて、時間があっという間に過ぎる。 けれど、それだけだ。涼介は自分の感情を押し殺し、ただの「隣人」以上の関係になることを恐れていた。 誤配達の日、初めて奏と顔を合わせた瞬間、涼介は恋に落ちた。一目惚れだった。声だけを知っていた時からひかれていたが、あの中性的で繊細な美貌を見た瞬間、涼介の心は完全に奪われた。整った顔立ち、細い体、柔らかな物腰。そして何より、あの声。すべてが、涼介の理想そのものだった。 だが、その想いを口にすることはできなかった。 ゲイであることを隠して生きてきた涼介は、誰かに本気で恋をすることが怖かった。好きになれば傷つき、期待すれば裏切られる。そう自分に言い聞かせてきた。これまでも何度か、男性にひかれたことはあった。けれど、その度に自分の感情を押し殺してきた。相手が同じ気持ちである保証はない。むしろ、嫌悪される可能性の方が高い。 それに、奏が自分をどう思っているのかも分からない。配信では「大切な人」と言っていたけれど、それが恋愛感情なのか、ただの友情なのか、涼介には判断がつかなかった。奏はナレーターとして、配信者として、言葉を巧みに操る人だ。その言葉をそのまま受け取っていいのか、涼介には分からなかった。 もし告白して、拒絶されたら? 今のこの心地よい関係が、壊れてしまったら? その恐怖が、涼介の足を止めていた。 * その日は、木曜日だった。 朝から雨が降っていて、涼介は折り畳み傘を鞄に入れて家を出た。しかし午後になって雨は止み、夕方には薄日さえ差していた。
2-1 偶然という名の必然 土曜の誤配達から三日が経った。 その間、涼介は一度も奏と顔を合わせていない。それにもかかわらず、隣室の存在は以前より遥かに重く、涼介の意識を占めるようになっていた。 廊下を歩くたびに四〇三号室のドアを見てしまう。エレベーターが開くたびに、中に誰がいるのか確認してしまう。自分の部屋にいても、壁の向こうから物音がするたびに耳を傾けてしまう。まるで思春期の少年のようだと、涼介は自嘲した。二十八にもなって、隣人の気配一つに心を乱されている。 あの日、奏の部屋でお茶を飲みながら話した時間が、涼介の頭から離れなかった。配信ブースを見せてもらい、「KANA」という配信者名を教えてもらった。奏の声を、壁越しではなく直接聴いた。その声は、配信で聴くよりもずっと近くて、ずっと甘かった。耳のすぐそばで囁かれているような錯覚を覚える。鼓膜を震わせるだけでなく、胸の奥まで染み込んでくるような響きだった。 あの声の持ち主が、壁一枚向こうに住んでいる。その事実だけで、涼介の心は落ち着かなかった。 水曜日の朝だった。 出勤前、ゴミを持って部屋を出た涼介は、廊下の先に見覚えのある後ろ姿を見つけて足を止めた。 焦げ茶のセミロングが揺れている。奏だ。同じようにゴミ袋を手にしている。 涼介の心臓が跳ねた。声をかけるべきか。いや、不自然だ。同じマンションに住んでいるだけの隣人に、わざわざ声をかける必要はない。そう思いながらも、足は自然と奏の方へ向かっていた。「おはようございます」 声をかけたのは奏の方だった。振り返った顔に、穏やかな笑みが浮かんでいる。その声は、朝の静けさの中で透き通るように響いた。低すぎず、高すぎず、どこか心地よい周波数。聴覚の鋭い涼介には、その声の輪郭がはっきりと感じ取れた。「あ……おはようございます」 涼介は慌てて頭を下げた。会いたいと思っていたくせに、いざ目の前にすると緊張で言葉が出てこない。「ゴミ出しですか?」「ええ、まあ」 当たり前の
土曜日の昼過ぎ。 珍しく休日出勤がなかった涼介は、惰眠を貪っていた。 平日の疲れが溜まりに溜まって、目覚まし時計が鳴っても起き上がれない。ようやくベッドから這い出したのは、正午を過ぎた頃になってからだった。 カーテンの隙間から、眩しい光が差し込んでいる。涼介は目を細めながら、キッチンに向かった。 冷蔵庫を開けると、中はほとんど空っぽだった。牛乳のパック、卵が二個、萎びた野菜が少々。賞味期限を過ぎたヨーグルトが、奥の方で忘れ去られている。 買い物に行かなければ。 そう思いながらも、体が動かない。休日くらい、何もしたくなかった。 コンビニでいいか。 涼介はそう結論づけて、着替えを始めた。スウェットパンツに、洗いざらしのTシャツ。休日の涼介は、平日のスーツ姿とは別人のようにだらしない。髪も寝癖のままで、髭も剃っていない。会社の同僚が見たら、目を疑うだろう。 インターホンが鳴ったのはその時だった。「宅配便でーす」 涼介は寝ぼけたままオートロックの解除ボタンを押す。 しばらくすると玄関のチャイムが鳴ったので、涼介は玄関に向かった。 ドアを開けると、配達員が段ボール箱を持って立っていた。汗を拭きながら、伝票を差し出す。「黒川さんですか?」「はい」「お届け物です。サインお願いします」 涼介は言われるままにサインをし、荷物を受け取った。特に何も頼んだ記憶はないが、会社関連の資料かもしれない。 ドアを閉めてから、ふと伝票を見た。「……白石奏様?」 宛名が違う。 住所を見ると、四〇三号室と書いてある。隣の部屋だ。 誤配達か。 涼介は溜息をついた。 本来なら配達員に返すべきだったが、すでにドアは閉まっている。今さら追いかけるのも面倒だ。 隣に届けるしかないだろう。 涼介は荷物を持って、四〇三号室の前に立った。 インターホンを押す。 数秒の沈
――白石奏は、配信を終えた後、静かに壁に手を当てた。 コンクリートの冷たさが、掌に伝わる。 この壁の向こうに、「あの人」がいる。 奏は目を閉じ、壁の向こうの気配を感じ取ろうとした。 かすかな息遣い。シーツが擦れる音。そして、押し殺した嗚咽。 ――泣いている。 奏は、その音を聞くたびに、胸が締め付けられる思いがした。 同時に、言いようのない高揚感も覚えていた。 自分の声が、誰かを泣かせている。自分の言葉が、誰かの心を動かしている。 奏が四〇三号室に引っ越してきたのは、一か月前のことだった。 声優の夢を諦め、ナレーターとして再出発を図った奏にとって、東京都内の家賃は高すぎた。仕事は不安定で、収入もままならない。そこで、少しでも家賃を抑えるために郊外のこのマンションを選んだのだ。 築十五年、駅から徒歩七分の1LDKの部屋。家賃八万円。 フリーランスのナレーターにとっては、それでも大きな負担だった。企業向けのナレーション案件は、月によって収入が大きく変動する。今月は三十万円稼げても、来月は五万円かもしれない。そのように不安定な生活の中で、八万円の家賃は決して安くはなかった。 引っ越してきた当初、奏は隣人の存在をほとんど意識していなかった。 四〇二号室の住人は、深夜に帰宅し、早朝に出勤する。生活時間が完全にずれていて、顔を合わせる機会はなかった。 足音から推測するに、男性だろう。背が高く、体重はそれほど重くない。歩き方は規則正しく、几帳面な性格が窺える。革靴の音がするから、おそらく会社員なのだろう。毎日深夜に帰ってくるということは、かなり忙しい仕事に就いているはずだ。 奏は、音から人を読み取ることに長けていた。 声優養成所で鍛えた耳は、かすかな音の変化も聞き分ける。足音、ドアの開閉音、シャワーの音。それらから、隣人の生活パターンを把握することは難しくなかった。 毎日深夜に帰宅し、シャワーを浴び、すぐに寝る。週末も変わらない生活