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第一章 声に堕ちる

ผู้เขียน: 海野雫
last update วันที่เผยแพร่: 2026-01-01 19:00:27

1-1 息が詰まる日常

 月曜日の朝は、いつも憂鬱だった。

 黒川涼介は、混雑する通勤電車の中で吊り革につかまりながら、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。郊外のマンションから都心のオフィスまでは片道四十分で、その通勤時間だけが、涼介にとって唯一の「無」になれる時間だった。

 車窓の向こうでは、住宅街が途切れ、高層ビルが増え始めている。灰色のコンクリートと、朝日を反射するガラスの壁。東京という街は、どこまでも無機質で、どこまでも他人に無関心だ。それが涼介には心地よかった。誰も涼介のことを見ていない。誰も涼介のことを気にしていない。大勢の中に紛れて、透明人間のように生きていられる。

 イヤホンからは、ジャズのボーカル曲が流れている。低く、甘い女性の声。ビリー・ホリデイの古いレコードをデジタル化したものだ。涼介はこの曲を、もう何百回聴いたか分からないほどだ。歌詞の意味など、とうに忘れてしまった。ただ、この声の響きだけが、涼介の心を静めてくれる。

 音楽を聴いている時だけ、涼介は「自分」でいられた。

 声というものには、不思議な力がある。言葉の意味を超えて、直接心に染み込んでくる何か。涼介はその「何か」に、物心ついた頃から惹かれ続けてきた。母親の子守唄、ラジオから流れるDJの声、映画の中の俳優の台詞。涼介の記憶は、いつも「声」と結びついている。

 電車が駅に着くたびに、人が乗り降りする。スーツ姿のサラリーマン、制服を着た学生、買い物袋を持った主婦。誰もが自分の世界に閉じこもり、他人に関心を持たない。スマートフォンの画面を見つめる人、目を閉じて眠る人、ぼんやりと宙を見つめる人。

 それでいい、と涼介は思う。

 誰にも注目されず、誰にも干渉されない。それが、涼介にとって最も心地よい状態だった。

 都心のターミナル駅で電車を降り、オフィスビルに向かう。涼介が勤める総合商社は、駅から徒歩五分の高層ビルに入っている。朝の八時半、出勤ラッシュの人波に紛れながら、涼介は無表情で歩を進めた。

 エントランスを抜け、エレベーターに乗り、十二階のフロアに降りる。自動ドアが開いた瞬間、オフィス特有の空気が涼介を包み込んだ。空調の音、コピー機の稼働音、そして無数の人の声。

「おはようございます」

 受付の女性に軽く会釈をして、自分のデスクに向かう。

 海外事業部のフロアは、すでに活気に満ちていた。電話をかける声、キーボードを叩く音、コーヒーメーカーが稼働する音。さまざまな音が混ざり合い、独特のざわめきを作り出している。

 涼介は、その音の洪水の中から、特定の声だけを聞き分けることができた。

 上司の声――今日は機嫌が悪い。声のトーンがいつもより低く、語尾が鋭い。昨日の会議で何かあったのかもしれない。同僚の声――昨日飲みすぎたらしい。声が掠れていて、喉の奥に疲労が滲んでいる。きっと二日酔いなのだろう。取引先からの電話――相手は焦っている。呼吸が浅く、言葉と言葉の間隔が詰まっている。納期に何か問題があるのかもしれない。

 それぞれの声には、それぞれの感情が込められている。怒り、焦り、喜び、不安。涼介の耳は、声の裏に隠された感情を敏感に拾い上げてしまう。それは便利な能力であると同時に、時として重荷にもなる。知りたくないことまで、聞こえてしまうからだ。

 それは、生まれ持った能力だった。

 子供の頃から、涼介は音に敏感だった。他の人には聞こえない小さな音を拾ってしまう。隣の部屋で囁かれる会話、遠くで鳴る電話の着信音、誰かが息を呑むかすかな気配。雑踏の中でも特定の声だけを聞き分けられる。時には、それが気味悪がられることもあった。

「お前、なんで分かるんだ?」

 子供の頃、そう聞かれるたびに、涼介は黙り込んだ。説明しても、理解されないことを知っていたからだ。

 そして何より――美しい声を聴くと、全身が反応してしまう体質だった。

 聴覚フェチ。

 その言葉を知ったのは、大学生の時だった。ネットで偶然見つけた記事を読んで、涼介は自分の体質にようやく名前がついたことを知った。

 声に性的興奮を覚える。特定の音に強い快感を覚える。

 世の中には、同じような体質の人間がいるらしい。ASMRという言葉が流行り始めた頃、涼介はその意味を調べ、いくつかの動画を視聴した。囁き声、耳かきの音、紙がこすれる音。確かに心地よかったが、涼介が本当に求めているものとは、少し違っていた。

 涼介が求めているのは、もっと――人間らしい声だった。機械的に作られた音ではなく、感情が込められた、生身の人間の声。

「黒川、おはよう」

 思考を遮るように、声をかけてきたのは、同期の山下翔太だった。

 涼介と同じ海外事業部に所属する山下は、入社以来の付き合いだ。百八十センチを超える長身に、整った顔立ち。短く刈り上げた髪と、人懐っこい笑顔。社内でも人気のある男だった。女性社員からの評判も良く、合コンに誘われることも多いと聞く。営業成績も優秀で、上司からの評価も高い。

 そして何より、山下は「要領のいい」男だった。

 仕事ができるだけでなく、自分の成果をアピールする術を心得ている。会議での発言、上司への報告、クライアントへのプレゼン。すべてにおいて、山下は自分を「見せる」ことに長けていた。

 涼介とは、正反対の人間だ。

「おはよう、山下」

「今日の会議、準備できてる?」

「ああ、資料は昨日のうちに仕上げた」

「さすが黒川。頼りになるな」

 山下が肩を叩いてくる。涼介は曖昧に笑って受け流した。その笑顔が、自分でも嘘くさいことは分かっている。でも、それ以外にどう反応すればいいのか分からなかった。

 今日の会議は、海外のクライアントとのビデオ会議だった。シンガポールの企業との新規プロジェクトの提案を行う重要な会議で、涼介は一週間かけて資料を作成していた。

 市場調査、競合分析、収益予測、リスク評価。膨大なデータを分析し、分かりやすい形にまとめ上げる。それが涼介の仕事だった。エクセルの数式、パワーポイントのグラフ、説得力のある文章。涼介はそれらを完璧に仕上げることができる。深夜まで残業し、何度も変更を重ねて、一つの隙もない資料に仕上げた。

 ただし、それを「伝える」ことだけは、できなかった。

「黒川くん、資料の最終確認をお願いできるかな」

 上司の声が聞こえる。五十代半ばの部長は、いつも穏やかな口調だが、その声の奥には常に計算が潜んでいる。涼介の耳には、その計算が透けて見えてしまう。「使える人材」と「使えない人材」を冷静に仕分けする、合理的な思考。涼介は今、どちらに分類されているのだろうか。

「はい、こちらです」

「うん、よくまとまってるね。さすがだ」

 上司が資料をめくりながら頷く。涼介は小さく頭を下げた。

「では、プレゼンは山下くんに任せよう。黒川くんは補足説明の準備をしておいてくれ」

 涼介の手が、わずかに強張った。

 また、だ。

 資料を作るのは涼介。プレゼンをして評価されるのは山下。このパターンが、入社以来六年間、ずっと続いている。最初の頃は、仕方がないと思っていた。新人だから、経験がないから、まだ信頼されていないから。そう自分に言い聞かせてきた。

 だが、六年経っても、何も変わらない。

「はい、分かりました」

 涼介は感情を押し殺して答えた。

 本当は、自分でプレゼンしたい。自分の言葉で、自分の仕事を説明したい。この資料に込めた思いを、自分の声で伝えたい。

 それでも、声が出ない。

 人前で話すことが、涼介にはできなかった。正確には、できないのではなく、怖いのだ。注目されることが怖い。評価されることが怖い。そして何より、本当の自分を見透かされることが怖い。

 大勢の前に立つと、喉が締め付けられる。心臓が早鐘を打ち、手のひらに汗が滲む。頭の中が真っ白になって、用意していた言葉がすべて消えてしまう。声が震え、言葉がつっかえ、みじめな思いをする。何度も、何度も、そんな経験を繰り返してきた。

 だから涼介は、いつも「裏方」に徹してきた。

 会議室に入ると、すでにビデオ会議のセッティングが終わっていた。大型モニターには、海外のクライアントの姿が映し出されている。シンガポールのオフィスにいる担当者たちだ。時差は一時間しかない。向こうはまだ朝の七時半だが、彼らの表情は真剣そのものだった。

「皆さん、おはようございます」

 山下が流暢な英語で挨拶を始める。涼介は会議室の隅に座り、補足資料を手元に置いた。

 山下のプレゼンは、いつも通り完璧だった。

 涼介が作成した資料を、山下は自分の言葉で説明していく。データの解釈、戦略の提案、リスクへの対応策。すべてが涼介の分析に基づいているのに、山下の口から語られると、まるで山下自身のアイデアのように聞こえる。

 山下の声は、自信に満ちていた。抑揚があり、間の取り方が絶妙で、聴く者を引き込む力がある。声のトーンを状況に応じて変え、重要なポイントでは力強く、細かい説明では穏やかに。涼介には絶対に真似できない、天性のプレゼン能力だった。

「素晴らしいプレゼンテーションでした、山下さん」

 クライアントが賞賛の言葉を送る。山下は満足げに微笑んだ。

「ありがとうございます。この提案には力を入れました」

 涼介は、その言葉を聞いて唇を噛んだ。

 「俺が」力を入れた――。

 俺が、だ。俺が一週間かけて作った資料だ。毎晩終電まで残って、データを分析して、グラフを作り直して、文章を何度も推敲して――。

 でも、涼介は何も言わなかった。言えなかった。言ったところで、何も変わらないことを知っていたからだ。

 会議が終わった後、上司が山下の肩を叩いた。

「山下くん、素晴らしいプレゼンだったね。クライアントも満足そうだった」

「ありがとうございます。黒川の資料が良かったので、助かりました」

 山下が涼介の方を見て言う。上司も涼介に目を向けた。

「そうだね。黒川くんの資料はいつも完璧だ。裏方として、よく支えてくれている」

 裏方。

 その言葉が、涼介の胸に深く刺さった。六年間、ずっと言われ続けてきた言葉。「裏方向きの人材」「縁の下の力持ち」「サポート役として優秀」。すべて、褒め言葉の形をした評価の天井だ。

「ありがとうございます」

 涼介は無表情で答えた。顔には何も出さない。感情を表に出すことは、涼介にとって最も苦手なことの一つだった。

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